男狭穂塚と女狭穂塚2 日向古代史疑

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 奥が男狭穂塚 手前が女狭穂塚
男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館 奥が男狭穂塚 手前が女狭穂塚

男狭穂塚は諸県君・牛諸井、女狭穂塚の埋葬者は
妻の大原妃と想定します。

これまでは宮内庁が、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と
このはなさくやひめに想定し、

郷土史家が豊国別大君にあてたりしていましたが、
造営当時は生存していたか、死亡して間もない期間に
埋葬されたとすれば、どちらの想定も、年代にむりがあります。

諸県君・牛諸井と妻・大原妃

男狭穂塚・女狭穂塚配置図

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館

諸県君・牛諸井は地方の豪族にすぎないだろう、と思われるかもしれません。

わたしは諸県と聞くと、直感的に都城地域をそうぞうします。

宮崎県内の諸県地方は、内陸部のほぼ全域におよんでいます。

西諸、東諸、北諸(過去には南諸もあった)

諸県君・牛諸井諸井は一つの諸県の代表者ではなく
それぞれの諸県地方を統治していました。

豊国別大君につながる、日向国全域の長官だったと、かんがえています。

男狭穂塚・女狭穂塚配置図

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館

諸県君・牛諸井と大原妃の運命の出会い

諸県君・牛諸井諸井は、20代後半から30代前半と50代後半に、応神天皇にもとめられて、大和朝廷にいっています。

応神天皇は外交に積極的で、朝鮮半島にもこころ動かされていました。

その足がかりの地は九州地方です。

第12代景行天皇によって、九州で勢力のつよかった、熊襲や隼人は
平定されたとなっていましたが、まだ世情は安定していませんでした。

熊祖国、隼人国に隣接する日向国の代表者、諸県君・牛諸井を上京させた目的は
二つの国の近情をもとめるためでした。

最初の出向の時のある日、宮廷で宴がもよおされました。

応神天皇も出席されて、宴たけなわになったころ、
諸県君・牛諸井と大原妃を玉座の近くに呼びよせ

「姫を日向国府の妃としておくろう」との言葉がありました。

大原妃は応神天皇の血をひく皇女です。

西都原考古博物館展示図

西都原考古博物館展示図

髪長姫上京

諸県君・牛諸井と大原妃のあいだに、髪長姫がうまれました。

諸県君・牛諸井が二度目の大和朝廷の出向を終えるころには
りっぱな娘に成長していました。

縁あって、髪長姫は、父親にかわって
大和朝廷にむかうことになりました。

男狭穂塚が諸県君・牛諸井の古墳。

女狭穂塚が大原妃の古墳。

となる、布石がしかれました。

続く

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