男狭穂塚と女狭穂塚2

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 奥が男狭穂塚 手前が女狭穂塚
男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館 奥が男狭穂塚 手前が女狭穂塚

男狭穂塚は諸県君・牛諸井、女狭穂塚の埋葬者は
妻の大原妃と想定します。

これまでは宮内庁が、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と
このはなさくやひめに想定し、

郷土史家が豊国別大君にあてたりしていましたが、
造営当時は生存していたか、死亡して間もない期間に
埋葬されたとすれば、どちらの想定も、年代にむりがあります。

諸県君・牛諸井と妻・大原妃

男狭穂塚・女狭穂塚配置図

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館

諸県君・牛諸井は地方の豪族にすぎないだろう、と思われるかもしれません。

わたしは諸県と聞くと、直感的に都城地域をそうぞうします。

宮崎県内の諸県地方は、内陸部のほぼ全域におよんでいます。

西諸、東諸、北諸(過去には南諸もあった)

諸県君・牛諸井諸井は一つの諸県の代表者ではなく
それぞれの諸県地方を統治していました。

豊国別大君につながる、日向国全域の長官だったと、かんがえています。

男狭穂塚・女狭穂塚配置図

X-T2 (18mm, f/3.2, 1/60 sec, ISO800)

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館諸県君・牛諸井と大原妃の運命の出会い

諸県君・牛諸井諸井は、20代後半から30代前半と50代後半に、応神天皇にもとめられて、大和朝廷にいっています。

応神天皇は外交に積極的で、朝鮮半島にもこころ動かされていました。

その足がかりの地は九州地方です。

第12代景行天皇によって、九州で勢力のつよかった、熊襲や隼人は
平定されたとなっていましたが、まだ世情は安定していませんでした。

熊祖国、隼人国に隣接する日向国の代表者、諸県君・牛諸井を上京させた目的は
二つの国の近情をもとめるためでした。

最初の出向の時のある日、宮廷で宴がもよおされました。

応神天皇も出席されて、宴たけなわになったころ、
諸県君・牛諸井と大原妃を玉座の近くに呼びよせ

「姫を日向国府の妃としておくろう」との言葉がありました。

大原妃は応神天皇の血をひく皇女です。

西都原考古博物館展示図

X-T2 (18mm, f/3.2, 1/60 sec, ISO800)

西都原考古博物館展示図髪長姫上京

諸県君・牛諸井と大原妃のあいだに、髪長姫がうまれました。

諸県君・牛諸井が二度目の大和朝廷の出向を終えるころには
りっぱな娘に成長していました。

縁あって、髪長姫は、父親にかわって
大和朝廷にむかうことになりました。

男狭穂塚が諸県君・牛諸井の古墳。

女狭穂塚が大原妃の古墳。

となる、布石がしかれました。

続く

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