西都原古墳舟形埴輪と髪長姫の深い関係 日向古代史疑

船形埴輪 西都原古墳出土
船形埴輪 西都原古墳出土 このような船10隻前後の数で朝日さす日向灘を‥イメージ写真

西都原古墳群出土の埴輪の中で一般的によく知られている「子持家形埴輪」と「船形埴輪」。

これら二つの埴輪から見えてくるのは、当時の大和朝廷支配国のなかで、日向国は最先端の構造物をつくるだけの技術力と財力を、かねそなえていた地方国家でした。

財力とは、古墳時代になって、飛躍的に稲作工法が改良されて、「米」の収穫がたかい単位で収穫されるようになりました。

当時の「米」は、普通の人々が日常的に食べるもんではなく、税として国府におさめられていました。

豊かな財力で、優秀な船や古墳製造技術者を各地から集めてくることができました。

飫肥杉の巨木をくりぬいて船体構造材にする

基本的な船体構造材は飫肥杉です。

飫肥杉は粘りがつよく、油性をおおくふくんでいるので、水をよくはじきます。

古代から、現代まで、船材として重要な構造材です。

「船形埴輪」は前後に大きく反り上がった舳先を持ち、左右の舷側板には櫂を固定するための突起が各6ヶ所あります。

左右6人づつ、12人の漕ぎ手で航海するようになっています。

この船の造りは、くり抜き法で成形された丸木舟に、波除けの板を取り付けた「準構造船」と呼ばれるもので、外洋航行も可能な船です。

髪長姫は、このような船にのって、大和朝廷に向かいました。

髪長姫は朝日の一ツ瀬川川口から旅立った

髪長姫は、何隻もの船の船団をくんで、日向国府の妻湊を出航しました。

船の数は10隻をこえていたかもしれません。

子持ち屋根つき穀物庫 西都原古墳出土

子持ち屋根つき穀物庫 西都原古墳出土 たわわに熟れた稲穂と税の収納倉庫 イメージ写真

「子持家形埴輪」は税の収納倉庫だった

日向国府内には、「子持家形埴輪」ような収納倉庫が、各地に建てられていました。

子持ち屋根つきの出入り口が、各壁面にもうけられているのは、どこからでも、運び入れやすく、持ち出しやすくするためです。

税として、このような収納倉庫に運び込まれたものは、大半が「米」でした。

ほかには、山里の「野草」「イノシシ肉・鹿肉」なども、税の対象になりました。

税の収納倉庫を埴輪として後世に残すほどですから、倉庫の棟数はおおかったのでしょう。

山里の税のなかには、角付きの鹿の皮も、多く含まれていました。

髪長姫が上方の湊に近づいたときに、船のこぎ手たちが、頭からかぶっていた、合羽です。

その容姿に、上方では「その牡鹿の数、数十にあり」と、おどいています。

子持ち屋根つき穀物庫 西都原古墳出土

子持ち屋根つき穀物庫 西都原古墳出土 たわわに熟れた稲穂と税の収納倉庫 イメージ写真

子持家形埴輪」と「船形埴輪」は髪長姫がつくった

二つの埴輪とも、男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳の陪塚(二つの古墳によりそう古墳)から出土しています。

男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳と関係がありそうです。

これら二つの古墳がつくられたあと、およそ50年~100年後の古墳からの出土埴輪です。

髪長姫は仁徳天皇の后として、落ち着いた暮らしをすごしているうちに、ふと、ふるさと日向を思いおこすことがありました。

すでに両親は、この世にいません。

なにか自分と両親とのつながりを、後世に残せないだろうか。

そんななかで思いついたのが、「子持家形埴輪」と「船形埴輪」をつくることでした。

二つとも髪長姫にとっては、両親とのつながりをしめす大切なものでした。

やがて髪長姫は、伝令を西都原に派遣して、男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳の近くに
宝物古墳をつくるようにしました。

そして「子持家形埴輪」と「船形埴輪」は大切におさめられました。

その宝物古墳は、現在、170号古墳として、両親の古墳の西側にあります。

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