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西都原 男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳埋葬者を推理する 日向古代史疑7

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日向古代史疑
日向古代史疑

令和時代をさかのぼること、1600年~1700年前に、齋殿原(西都原)に、二つのおおきな前方後円墳が築かれました。

この時代、権力者たちは、死後のすみかとして、このような巨大古墳を築くことが流行っていました。

大和政権の支配する当時の日本には、数十基の、このよな巨大前方後円墳が、各地にのこっています。

その一つが齋殿原(西都原)に残されている、男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳の二つです。

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なぜ二つの古墳はふれあうようにぴったりと隣接しているのか

日向古代史疑

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このように、二つの古墳が、ぴったり寄りそうような姿の古墳は、ほかに見かけることはありません。

不思議なことに、女狭穂塚古墳は完成した、整った形であるのに対して、男狭穂塚古墳のほうは、前方部の細長い台形状の部分が、途中で断ち切られたようなかたちでおわっています。

西都原考古博物館内で上映されているグラフィックスから想像して、まず、男狭穂塚古墳をさきに築きはじめていたが、その途中に、女狭穂塚古墳のほうを先に完成させる必要が生じてきた。

または、先に女狭穂塚古墳を完成させておいて、その後に、男狭穂塚古墳を築いた?。

そうであれば、設計段階から、女狭穂塚古墳と平行に築くのが普通だとおもわれます。

男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳をわざわざ交差させるような形にして、男狭穂塚古墳だけを、中途半端な形で終わらせてしまっては、後世の恥だと、造営依頼者は考えたはずです。

男狭穂塚古墳を築く権力者は、当時の日向国を統一するだけの権力者だったと考えられます。

そんな実力者の古墳造営を、途中でとん挫させてしまうほどの権力者とは、一体誰なのか。

日向古代史疑

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日向古代史疑 手前が女狭穂塚古墳 イメージ写真

男狭穂塚古墳の未完成説

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日向古代史疑  手前が男狭穂塚古墳 イメージ写真

現在、男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳の管理は宮内庁で、

一説によ、男狭穂塚古墳は瓊瓊杵尊(ニニギノニコト)。女狭穂塚古墳の埋葬者はコノハナサクヤヒメとされています。

もし、そうと仮定した場合に、日本国を創世した瓊瓊杵尊の古墳を、中途半端な形にしておくでしょうか。

むしろ今日まで残されてる、女狭穂塚古墳のほうを男狭穂塚古墳にして、男狭穂塚古墳を女狭穂塚古墳に取りかえた方が、理にかなうようにも思えます。

地元考古学者のなかには、男狭穂塚古墳の埋葬者を、日向王権の始祖とされている、豊国分大君にあてられています。

女狭穂塚古墳の埋葬者は誰だろう? その答えはありません。

日向古代史疑

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女狭穂塚埋葬者による破壊説

日向古代史疑

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コノハナサクヤヒメが瓊瓊杵尊の古墳を破壊するとは、常識的に無理な発想です。

男狭穂塚古墳を日向国始祖を豊国分大君とした場合にはには、女狭穂塚古墳の埋葬者があきらかにされていないので、想定のしようがありません。

私の想定では、男狭穂塚古墳の埋葬者を諸県君・牛諸井。女狭穂塚古墳の埋葬者を妻である大原妃にあてています。

古墳造営の時期を5世紀に想定すると、時代的にも矛盾はありません。

伝承では、諸県君・牛諸井は日向国の諸県地方の長官的なあつかいになっていますが、応神天皇に召されて、一時、大和朝廷に出向しています。

ただの地方長官の身分ではなく、ある時期からは、豊国分大君のような、日向国王的な性格の人物にまで成長していたのではないか。

妻の大原妃は皇族の流れをくむ上流階級婦人です。

諸県君・牛諸井が上京していたときにめぐりあって、結ばれました。

生まれた女の子を髪長姫と名づけました。

その頃の日向国には、最初の神武景気がおとずれていました。

稲作技術は向上して、豊穣の年がつづいています。

モミによる税収も順調で、夫婦の巨大古墳を造営するだけの財力も備わっていました。

男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳と髪長姫の深い関係

生目古墳イメージ写真

前方後円墳イメージ写真

男狭穂塚古墳造営は、順調にすすめられていました。

ちょうどその時期の前後に、大和朝廷では娘の髪長姫の評判が高まっていました。

「天皇、日向国諸県のむすめ、名は髪長姫、その顔かたち麗しきと聞き‥」と、応神天皇自らが、髪長姫をほめたたえています。

やがて、その評判は、次期仁徳天皇になられる大雀命にも届くようになり、ついには、妃になられまっす。

妻の大原妃のこころに、微妙な変化がおきはじめました。

男狭穂塚古墳の後円部が完成する頃には、夫婦の間で、肌を合わせるようなこともなくなりました。

諸県君・牛諸井は日向国の大王とはいっても、身分的には、皇族の流れをくむ大原妃のほうが上になります。

やがて、二つの古墳造営の方針で、夫婦間に対立が生まれます。

力のバランスがくずれると、男の権力は弱いものです。

この時期を境に、日向国は、中央政権から、しだいに遠ざかるようになりました。

西都原古墳の造営も、絶頂期をすぎて、いつのまにか古墳文化は終えんを迎えていました。

西都原古墳舟形埴輪と髪長姫の深い関係 日向古代史疑
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