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男狭穂塚と女狭穂塚 日向古代史疑

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男狭穂塚・女狭穂塚配置図
男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館映像より
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男狭穂塚と女狭穂塚に埋葬されたのは誰?

男狭穂塚古墳の実際の埋葬者は明らかではありません。
宮内庁では埋葬者を特に定めない陵墓参考地(男狭穂塚陵墓参考地)にしています。

埋葬者候補者として瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を挙げ

隣接する女狭穂塚古墳(女狭穂塚陵墓参考地)では

埋葬者候補者として妃の木花開耶姫(このはなのさくやひめ)があがっています。

でも、お二人とも神話の世界の人物達です。

男狭穂塚・女狭穂塚がつくられるより、千年以上前の神話に登場するお二人です。

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館映像より 男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館映像より[/caption]

X-T2 (18mm, f/3.2, 1/60 sec, ISO800)

お二人以外の埋葬者名とは

豊国別大君の名があげられています。

豊国別大君は第12代景行天皇が生ませた皇子とされています。

景行天皇は、南九州征伐の途中に、現在の国富町周辺に高宮を建てて6年間住みました。

そのときの皇太子が、豊国別大君というわけです。

豊国別大君は、当時の日向国を、政治的におさめた、最初の大君とされています。

任命者は、景行天皇です。

だから、西都原で一番大きな男狭穂塚に眠らせるのは、当然だというわけです。

それでは、そのとなりの女狭穂塚には、だれが眠っているのか。

男狭穂塚が豊国別大君の古墳とするならば

豊国別大君とまったく無関係の女性が葬られているともおもえません。

学者、先生達はなにもふれていません。

豊国別大君を男狭穂塚に葬るのは年代的に無理が‥

第12代景行天皇の在位年代が西暦71年~130年とされています。

景行天皇が日向国で権力を行使されたのが、在位十三年前後。

豊国別大君が景行天皇晩年期から、日向国始祖に着任したとしても
西暦130年~180年でしょう。

まだ日本歴では2世紀の時代です。

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館映像より

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館映像より

各地に古墳団地ができるのは4世紀ごろから

古墳造営が本格的にはじまるのは、西暦300年代からです。

この時代になると、日向国内でも西都原、生目、新田原の地区で
さかんに古墳造りがはじまりました。

どう長生きしても、この時代まで、豊国別大君は生きていません。

いちぶ考古学者の説では、第12代景行天皇から第13代成務天皇第14代仲哀天皇をとびこえて、いっきに第15代応神天皇としています。

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館映像より

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館映像より

応神天皇と仁徳天皇のつながりから誕生した男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳

男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳がつくられたのは、暦400年代、日本歴では5世紀とされています。

歴代天皇では第15代応神天皇から第16代仁徳天皇に移行する時代になります。

この時期が、大和王朝と日向国が、いちばん仲がよかった時代です。

日向国では、諸県君・牛諸井とよぶ豪族がいました。

諸県君・牛諸井は応神天皇に仕えていた時期に大原妃を妻にむかえました。

二人の間に生まれた髪長姫は、のちに仁徳天皇の妃にむかえられます。

続きは次回へ。

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館映像より

男狭穂塚・女狭穂塚配置図 西都原考古博物館映像より

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