神武天皇東征の地・美々津

美々津8暮らしの中で
美々津8

耳川河口美々津港江戸時代高鍋藩上方交易港明治大正時代は入郷地帯を後背圏とする物資の移出入港となり美々津はその港町として栄えた。 当時の建物、敷地割が残り、瀬戸内船運の西端にあたり、上方風の商家、操船・水運業者の家、漁家が連なり、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定される。ウィキペディア

美々津は日本の夜明けのはじまりの地だった!

美々津2

美々津2

美々津

美々津

高瀬舟で思い出すのが、森鴎外の同名の短編小説。
人殺し罪人を運ぶ船ですが、京都の高瀬川を下る船が高瀬舟。

美々津の高瀬舟は、耳川上流の諸塚・椎葉などの産物を運び下ってきた
運搬船。

ここから大型船に積みかえて、京・大坂などに海上輸送されていきました。

美々津3

美々津3

繁栄していた時代をしのばせる白壁・格子づくりがまぶしい

高瀬舟が往き来していたころの美々津の町並みが今も‥‥。

大正時代後半に日豊線が開通して、美々津の海上輸送は次第に
衰退していくことになりました。

当時の面影が、いまなを建物の情景に残っています。

 

美々津8江戸時代高鍋藩の商業港となり、内陸から耳川で運ばれた木材などの積換え港として栄えた。

美々津10

美々津10

美々津12

美々津12

美々津11

美々津11

美々津港 後方に国道10号線とJR日豊線

美々津14

美々津14

ひっそりとこんな碑も

美々津6

美々津6

神武天皇東征と大東亜戦争を無理にリンクさせた感じも‥‥。

美々津7

美々津7ゴロゴロの玉石の直下まで波が打ちよせています。

遠くの小島と小島の間を、神武天皇は通って東征したとの伝承。

地元では、そこを通って出航しないとのならわし。

小島と小島の間を通って出航すると、帰港できないともいわれています。

伝承によれば、神武天皇の出航日は旧暦8月1日である。(日本書紀によれば旧暦10月5日である)

美々津13

神武天皇はこの日の昼に出航の予定だったが、風向きが変わったため早朝に繰り上げ、「起きよ、起きよ」と家々を起こして回った。このことから、旧暦8月1日には起きよ祭りが開かれる。時間がなかったので着物のほつれに気づいても直す暇がなく、立ったまま縫わせた。そのためこの地を「立縫いの里」と呼ぶ。住人たちは出航に合わせてを作る予定をしていたが、急遽、小豆餅米を一緒について渡した。これを「お船出団子」と言い、今に至るまで美々津の名物となっている。ウィキペディア

美々津15

立磐神社には、「神武天皇御腰懸磐」がある。神武天皇が出航の際にこのに腰掛け指揮したとされ、社名の「立磐」もこれに由来する。神武天皇と航海神の住吉三神を祭神とする。ウィキペディア

 

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