天皇家の御陵墓地の始まりは西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚だった!

鬼の窟古墳
鬼の窟古墳

天皇家の御陵墓地の始まりは西都原古墳群か

春は桜に菜の花。秋にはコスモスの群花。この地に一歩踏みこむとそこには古代日本の姿がみえてくる。

平成が終わりを告げ、新時代が幕開こうとしている今、天皇家のふるさをかいま見てみよう。

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あまりにも神秘すぎる西都原古墳群

西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)は、宮崎県西都市街地のはずれに位置した古墳群です。

標高70メートル程度の丘陵上に分布する日本最大級の古墳群です。

320基以上からなる九州地方最大規模の古墳群で、実際に車で一周してみると規模の大きさに圧倒されます。

およそ400年の間に造りつでけられた古墳の数320基以上

3世紀前半~3世紀半ばから7世紀前半にかけての築造と推定されています。

およそ300年前後の期間になぜこれほど多くの古墳をこの丘陵に造ったかははっきりしません。

この一つの地域に時代を経てなお墓を造りつづける必然的な理由があったはずです。

男狭穂塚・女狭穂塚が意味するもの

西都原古墳群の中心をなす墳墓は男狭穂塚・女狭穂塚です。

ほかの古墳の大半は円墳・前方後円墳ともその全容をさらけ出していますが、この二つの古墳は周囲を立入禁止の柵をめぐらせ、内部が見えないようにふかい木立でおおわれています。

この二つの古墳は宮内庁管理になっています。

ということは天皇家と関係がありそうですね。

古代日向の豪族の墓を宮内庁が管理するはずはありません。



「天皇家のふるさと日向をゆく」が示す古代日向と天皇家

「天皇家のふるさと日向をゆく」(梅原猛著)からもイメージされるように、西都原古墳群は古代天皇家と深いつながりがありそうです。

邪馬台国南九州説を唱える立場では西都原古墳群がつらなる丘陵地の東側直下一帯を卑弥呼の都があったところとも推測しています。

ということは大胆な仮設をすれば女狭穂塚古墳は卑弥呼の墓!!?。

そして卑弥呼こそ天皇家の祖先。

コノハナサクヤヒメとニニギノミコト

現在宮内庁では被葬者を特に定めてはいませんが次の二人にあてはめています。

女狭穂塚=コノハナサクヤヒメ

男狭穂塚は誰の墓?ニニギノミコト

西都原古墳群は古墳団地だった!

この巨大な二つの古墳を取り囲むようにして320基以上の古墳がいまも存在します。

当時はもっと多数の古墳があり、いまでいう古墳団地の景観があったはずです。



卑弥呼の点と線

卑弥呼が三世紀中になくなり、女狭穂塚を卑弥呼の墓と仮定したとき、その後二つの墓を見守るように世紀をまたぎながら次々に大小の古墳が造られ続けられたことも案外的外れではなさそうです。

邪馬台国が北九州説や畿内説というふうに展開されはじめたのは松本清張著「古代史疑」

あたりからではないでしょうか。

男狭穂塚・女狭穂塚を中心に(位置関係が中心という意味はなく)320基以上からなる古墳群が連なるということは尋常ではありません。

人材確保と資材調達

大量の古墳を造営するとなればそれに伴う人材や資材を確保しなければなりません。

大多数の人材を常駐させておくためには住宅や食料も安定的な供給が必要になります。

資材、例えば石材(古墳の表面をおおう葺石)・鬼の窟古墳の巨石などの手配。

西都原古墳群は標高70メートルぐらいの丘陵地にあります。極端に表現すればおわんを伏せた上の方が西都原古墳群の台地です。

冬の西都原古墳群

冬の西都原古墳群

優れた土木・建設技術が必要

台地には古墳を造営するだけの石材はみあたりません。おそらく台地からくだって北側におよそ4キロさきに流れる一ツ瀬川の河原あたりからおもに運ばれたものと考えられます。

運ぶためには人馬が行き交う道路の敷設整備をしなければなりません。

当時とすれば大規模な古墳造営団地が形成されていたはずです。

現代でもこれだけの古墳群を造るとなれば相当規模の土木工事現場になります。



男狭穂塚・女狭穂塚が天皇家の御陵墓地の始まりのこれだけの理由

なぜ西都原これだけの古墳群が造営されたのか。

ただ周辺部の属長クラスだけでこれだけの墳墓群は必要ありません。

一国を支配した権力者の墓が造られその周りに次々に墳墓が造られたと仮定すれば理解がしやすいと思います。

それも最初の墓が造られたのが三世紀でその後四世紀・五世紀・六世紀・七世紀と世紀をまたいで、同じ台地に墳墓が造り続けられことを考えれば、最初に造営されたと思われる男狭穂塚・女狭穂塚に埋葬された人物がどれだけ大きな権力を保持していたかが想像できます。

西都市は周辺の村や町と合併して1958年に西都市になりました。それ以前には西都町・妻と呼ばれていました。

妻を魏志倭人伝にいう投馬国に充てる説もあります。

魏志倭人伝とのつながり

卑弥呼の壮年時代の活動期はどこか知りませんが、晩年になって投馬国周辺にすむようになったのではないか。

あるいは生前に自分の墓を投馬国の丘陵地に指定していたのではないか。

卑弥呼が西都原に自分の墓を造ったので彼女の側近たちもこぞってその周辺に自分の墓を造った。

鬼の窟古墳

鬼の窟古墳

鬼の窟古墳は外国大使の墓だった!

鬼の窟古墳の造営方法は朝鮮半島や中国の墳墓形式に似ているといいます。

鬼の窟古墳の埋葬者は卑弥呼の都に住んでいた外国大使だったかも知れません。

箸墓古墳と西都原古墳群とのちがい

三世紀に造られた箸墓古墳が奈良県桜井市にあり卑弥呼の墓との説があります。

でも箸墓古墳は単独の墳墓のようです。

それに比べると西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚は周辺に無数の墳墓を抱いています。

こちらに葬られている卑弥呼は孤独ではありません。

こちらのほうが天皇家の御陵墓のはじまりにふさわしいようにも思えるのですが……。