ツワブキの花咲く小道(一)

高見櫓
高見櫓
一ツ瀬川の河口

一ツ瀬川の河口

諸県君牛諸井を長とする3隻の船が上方の湊を出港し、日向の齋殿原(西都原)をめざしたのはいまからおよそ二週間ほど前のことだった。
三隻の船の前後を青竹で二カ所を横並びにしばって固定し、全体としては一隻にみたてている構造になっている。

船は飫肥杉の巨木をくりぬいた単材刳り船で、真ん中の刳り船に諸県君牛諸井一人がのり、横の刳り船二隻にはそれぞれ三人が乗りこんでいて、こぎ手を担っていた。

諸県君牛諸井の帰郷

六人のこぎ手はいずれも諸県君牛諸井の側近たちである。そのなかで柿田彦がとくに日和見にすぐれていた。
空のいろ、雲のながれ、ただよう空気のにおいなどで、その日の天候を予測する。残りの5人も日和見に長けており、航海中は絶えず6人が合議しながら、その日一日の天候の予測や急変を感じとりながら航海をつづけている。

刳り船の材として使われている飫肥杉は、ほかの堅木よりも柔軟で加工のしやすさがあった。そのころからようやく出まわりはじめていた鉄製の道具のおかげで、前時代の縄文式刳り船よりも造船工程は大幅に短縮されるようになっていた。

また飫肥杉が船の材として優れているのは皮下にふくまれている樹脂が水をよくはじくので、一本木をくりぬいてつくる刳り船に最適な材料でもあった。
この時代の飫肥杉は、組織的に植林されて育てられたものではなく日当たりがよく、肥沃な日向南部の山の東南斜面に自然に育った杉の木をさしている。

先史時代あたりから開かれていた宮崎市の城ヶ崎の湊や美々津湊から上方などへの海上交通に使用される刳り船の材のほとんどを、オビアカの杉材でまかなっていた。

当時の刳り船製造法は、樹齢二百年前後のオビアカの巨杉を石斧とあぶり火で何日もかけて伐採し、木材の形にととのえてから、刳り船のかたち分だけにあぶり火をはなってくぼみができると、残りは石斧でハツリながら刳り船のかたちにしあげていく。それが諸県君牛諸井の時代になると石斧にかわって鉄のハツリ斧が発明されていたので、工期は先史時代にはくらものにならないほどおおきく短縮されていた。

海の道

一ツ瀬川

一ツ瀬川

この時代の航海は、沿岸の浦々をつたわるよに航行する沿岸航法が主流である。途中、川幅のひろい川口にさしかかったりして沖に押し流されることがあっても、川岸からせいぜい四キロ程度の沖合であった。
諸県君牛諸井たちが南下するときには、つねに浜や岩礁、断崖など右側に陸をみながら航海していた。

真ん中の刳り船には諸県君牛諸井一人が乗りこんでいる。その前後の空間には食料や飲料水などの航海中の生活にに必要な物資がつみこまれていた。食料は出まえに湊で調達した干し肉、干し魚、干し米などであった。飲料水も複数の土器壺に満杯にしてあった。

航海はほぼ潮まかせ風まかせの日々で、気象の変化とともに行動する。海上があれていると何日も浦かげや砂浜の砂地に船をひきあげて海のおさまるのをまった。
浦や浜に人家らしきかたちのものはほとんどみあたらない。無人の陸で火をおこし荒波が静まるのを待つしかない。

陸路、齋殿原(西都原)を目指す方法もあったが、征きに海上を利用していたので、はじめから帰りも航海ときめてある。
海の危険は陸の沙汰ではなかった。一度、日和見を見誤って時化にでも遭ってしまうと、手こぎの刳り船などひとたまりもなく海の藻屑になってしまう危険性をはらんでいる。

それでも波のよみかたさえまちがえなければ、陸よりもはるかに高速の交通手段であった。陸路では一歩村道から外れてしまうと、あとの大半はウサギ道やイノシが踏みかためてつくった獣道のような小道しかない。

山の背を這うようにしながら歩いたり、谷の渓流越えなど日々の疲労を費やすいとまもないぐらいの難儀さにくらべれば、春のあらしが一段落した四月はじめに、上方の湊をたつころから、波は落ちつきを取りもどしつつあり、よこ三列につなぎ合わされた刳り船は、両端の三人づつの櫂を煩わせることもほとんどない。

まともの風と潮目にのってしまえば、刳り船の一日の航海はときには百キロに達する日もあったりする。波おだやかな月夜にも航海できるので、海上交通の便利さを知ってしまった者たちには陸の歩行が疎ましく感じられることもあった。

諸県君牛諸井の船は今日の午前中には無事に、ながい航海を終えようとしていた。
一ツ瀬川の河口から満ち潮の押し波にのりながら齋殿原の湊を目指している。

先ほどからへさきにたって陸を見つめていた柿田彦は、突然、新田原の空に高々と黒煙が上がりだしたのを目にした。その煙柱はまたたくまに勢いづいて、まっすぐに空の彼方にのびあがっていく。

柿田彦が乗船している船と新田原の間にはまだなりの距離がある。陸といってもいまはただ漠然と視界の先に灰色の山影が浮かんでいるにすぎない。
新田原の高台では、常時、海上を見張っていて、航行している船に気づくとああやってのろしをあげているのだ。そののろしはやがて齋殿原の見張りにひきつがれる。

諸県君牛諸井も陸の様子に気がついている。航海中のかたかった表情がほんのすこし和らいで見えた。
諸県君牛諸井のことを柿田彦をはじめ側近たちは皆、敬愛を込めて諸君とよんでいる。

隼人国と熊襲国

弥生土器

弥生土器

牛諸井は諸県君として都城早水村で生まれた。諸県は西の霧島連山を背に大淀川南部の広大な地帯にひろがっている。時折、南風にのって桜島の火山灰がまいおりたりもする。

牛諸井は成人近くになると、生まれつきの知恵と行動力で隼人国に通じながら、熊襲国とも交流ができるような大人になっていた。
隼人国で生産される海産物や南の島々から運ばれてくる輸入品を熊襲の国に運び、熊襲国の王はそれら隼人国から運ばれてくる品々を北の各国に輸出して利益期を得ている。

牛諸井は熊襲国から麻地や干し肉、米などを隼人国に運びいれた。隼人国では米がとれないために、米の買いいれには熱心だった。都城は霧島山を境にして海の幸と山の幸が交差する主要な中継基地でる。

熊襲をはじめとして他の国々が隼人国と直接取引をためらうのは、あつい言葉の壁があった。隼人国は言葉で他国との交流をかたくとざしている。
有史以来、他国人には隼人びとが話す言葉は理解できない。
その点、諸県君牛諸井は知恵や努力を重ねて、隼人言葉にも熊襲人たちの会話も理解できたので両国から重宝がられていた。

両国の交易を仲立ちするうちに諸県君牛諸井は次第に力をつけていき、やがて上方の大君の耳にも諸県君牛諸井の権勢がとどくようになっていた。

大君から上洛の要請があったのはいまから三年前のことである。当時、大君は隼人国統一に手間取っていた。その方策についての知恵を諸県君牛諸井から聞き出そうとしていた。
諸県君牛諸井にしてみれば現状の安定を乱すようなことにはかかわりたくなかったが、お上の要請を断ることはできない。

三年という期限をもうけて上方に旅立った。
その三年目を迎えた今年、諸県君牛諸井は44歳になっていた。自分でもつくづく年を重ねたものだと近頃は思うことが多くなっていた。

そろそろ大君に仕える歳ではなくなったことも実感としてある。今が潮時だと知った牛諸井は大君にそのことを伝え、今回の帰郷が実現した。大君が隼人国征伐をいつはじめるかはわからない。

初夏をおもわせるような快晴の空の下、海面には日差しがまぶしすぎるぐらいにはじけていた。海面下を泳いでいる小魚がはね上げるしぶきとかさなって、あたり一面が小躍りしている。

一ツ瀬川の河口から見る南の山稜は凹凸の乏しい山並みをさらけだしている。低い山脈が西の彼方で消え去ろうとしているあたりには児湯の国と熊襲国との国境の山が連なりながら消えている。

いつの間にか新田原の煙柱は刳り船の後方にひきさがっていた。
「あれを」
柿田彦が諸県君牛諸井の顔を見ながら齋殿原の方向を指さした。
齋殿原の東の端からも新田原に負けぬ勢いで心地よい煙柱が立ちのぼっている。齋殿原の人々も諸県君牛諸井の帰郷を歓迎している勢いある煙柱だった。

「投馬国」と「妻」

高見櫓

高見櫓

日向国の首都「妻」は、齋殿原の丘陵の中央に配置されている。先代の上方の大君がこの地を巡幸する以前は齋殿原一帯は「投馬国」とよばれていた。
縄文以前から弥生時代とつづいてきた「投馬国」という国名には、途方もないほどの月日がきざまれているのだった。

そんな長い歴史に燻製されつづけてきた国名が大君のたった一言の聞きまちがいで、あっさりと変えられてしまったことを嘆く古老たちはいまだにいる。
大君をこの地に案内した地役人がこの地は「投馬国」と告げたが、大君は「投馬国」を「妻国」と聞きまちがえた。

古老たちにとっては自分たちの先祖たちから伝わりつづけてきた地名がである。 縄文時代以前のとおい時代に、瓊瓊杵尊を長として大量の西の大陸からの渡来人が馬でやってきたことにちなんでつけられた国名だと古老たちはずっと言い伝えていた。

渡来人たちが連れてきた馬は縄文晩期を過ぎ、いまの弥生時代の半ばになっても、齋殿原地方では頭数はあまり増えなかった。ひろく日向国にあっては国造りのはじめ頃から馬ではなく和牛が住人たちの生活の中に溶け込んでいた。

「妻」の平地一面に開拓されている水田はいま盛んに和牛を田んぼに入れて、田起や代掻き作業をはじめている最中だ。農作業の現場には馬より和牛の方が役立つている。田の中に馬の姿を見ることはほとんどなかった。

馬を必要とするのは国府内で暮らしている地君や地君の側近たちの交通手段として飼いならされているぐらいのものであった。

古来からずつとつづいている「投馬国」の愛着からはなれられずに、今でも古老たちの間では新しく生まれた国名の「妻」になじめず「投馬」と呼んだりしているぐらいであった。

日向国の国府が置かれている齋殿原は一ツ瀬川の中流に位置して、ややせり上がった土地に開かれている。中心部には国府を司る建物がおかれ、周りには高見櫓を兼ね備えた高倉式の二棟ほど建っている。

高見櫓は外敵が侵入してくるのを見張る重要な施設であった。倉庫の方は農民たちから集めた稲や漁師からの魚類、山師たちからの収納品が納められているほかに、周辺の国々から国府に贈られてきた宝物であったり、反対に「妻国」から周辺の国々に贈る宝物なども保管されている。それらの建物から少しはなれた周辺部には古墳墓が点在している。

稲作のはじまり

弥生時代の田んぼ跡

弥生時代の田んぼ跡

齋殿原の麓には米を栽培する人家がまばらに建っていて、どの家の前にも家が所有する田んぼに水がはられていた。
まだこの時代には村という組織は誕生していなかった。

この地方に熊襲国経由で稲作栽培がつたわって100年たらずである。
地元民たちは、瓊瓊杵尊の末裔たちがはじめた稲作を見よう見まねで作りはじめて、ようやく今の時代になって齋殿原一帯にも稲作が定着しはじめていた。

農民同士の共同体もまだ幼稚であった。田植えの時期も稲刈りの時期もまちまちにおこなっていたので、収穫にばらつきがでる。
それに気づいた齋殿原の国府が稲作の仕方を統一して農民たちに教えはじめてまだ数年しかたっていなかった。

農民たちがおなじ季節に苗を植え、秋にそろって稲刈りをするようになってから、米の収穫は格段にふえた。そんな中から村の共同体意識もすこしづつめばえはじめていた。

たとえば春先の野焼きや田に引く水の管理などは、いままでは各農家がバラバラにやっていたが、稲作の方法が統一されるようになってからは、村としての共同作業にかわっていった。

国府は収穫された米から一定の量を献上米として徴収しはじめた。
そのために一定に決めた量をはかる一升マス考案がされた。樫の木を輪切りにし、縦、横、高さを五寸幅に定め、季節の収穫にあわせて、一升、二升と徴収した。マスの大きさは大和政権が全国統一するまでは地方によってまちまちであった。農家戸別による徴収の差もまだなかった。

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