南国の初雪の中、鶴になって舞う妻の姿

初雪

「芳ちゃん、雪よ」

日曜日のおそい朝、私は布団の中で、妻のはずんだ声を夢うつつに聞いていました。南国のこの地に雪が降ることは滅多にありません。

多くてもひと冬に二、三度あるかないかです。

それも平地に積もることはほとんどない土地柄です。遠い山から粉雪がほんの少し舞い込んでくるだけで子供だけではなく大人でもうれしいものでした。

私はまだ布団からぬけだすことが出来ずに、頭だけを持ちあげて窓のカーテンをあげてみました。借家の前はすぐに田圃がひろがっています。

一面の雪化粧

昨日までは灰黄土色の殺風景だった稲の切り株や、あぜ道の枯れ草の上にうっすらと雪がふりつもっていました。この町に引っ越してきて見る初めての雪景色でした。

妻は部屋の前の小さな庭のはしにたっていました。ガラス窓の中に私のすがたを見つけたようです。早く起きておいでという素振りで手招きをしていました。

ガラス窓を開けると、一気に冷気がおそってきました。

「積もるかしら?」

妻はそういいながら私のそばから部屋にあがり台所のほうに行きました。

「登美子、あれ鶴じゃない?」

田圃のひろがっている一角に小高い丘があってまわりには数本の杉の木が立っています。
そのあたりに、白い大型の鳥が五、六羽、音もなく舞いおりました。

小高い丘全体に雪は降りつもっています。杉木立の青い葉もうっすらと白くなりはじめていました。

「ほんとに。鶴よ!」

コーヒカップを差し出しながら妻は少し興奮気味に声をあげました。

私たち二人は寒さも忘れて窓際に座りしばらく雪の中の鶴をながめていました。

数羽の鶴の群は警戒するように静かに立っているだけでした。ときおりながい首とくちばしが動いていますが、木立のかげからでようとはしませんでした。

子鶴

しばらくして一羽が、田圃の中におりてきてゆっくりと歩きはじめました。
人家のあるこちらのほうに向かってです。

「子鶴みたいね」

曇りガラスを手でふきながら、妻は遠くに引きこまれるようにしながら見つめていました。

五、六羽の鶴が飛来するなど今まで見たことのない光景でした。冬でも温暖なこの地方でよく見かける大型の鳥といえば白鷺ぐらいなものです。

その夜妻は、
「少しも温もらない」

といいながら、布団の中の私に抱きついてきました。手足が白い冬大根のように冷えていました。

「今朝の子鶴ね、あれから手招きしたら、私の近くによってきたよ」

妻は私の脚の中に足をさし込みながら話しかけてきました。

彼女は結婚前、身ごもっていました。

「産みたい」

私はどう返事していいかわかりませんでした。

夫婦のありよう

そのころはまだ、はっきり結婚を前提としたつき合いではありませんでした。心の中には半分遊びの気持があったのはたしかでした。

「堕ろした」

ひと月後に会った彼女は青白い顔をしていました。彼女の小柄な体全体に寂寥感が漂っていました。

私は彼女にすまないことをしてしまったと後悔しました。

そんな出来事があってからはそれまで以上に、二人でドライブしたり洒落たレストランで食事したりして楽しい日々を過ごしました。

おめでた

一年も経つとあの忌まわしい堕胎の記憶は水に流してしまったように会うたびごとに、彼女は明るく元気な表情になっていました。

私たちは昨年の夏に結婚しました。

耳元で子鶴が寄ってきたと妻がいったとき私は今朝、田圃に見た鶴の群のことはすっかり忘れていました。

それよりも次に妻がささやいた一言のほうが私には心の中にひびきました。

「おめでたみたい」

すっかり火照った妻の体全体から伝わってくる息づかいを耳元に聞きながらも私はいつの間にか眠っていました。

Canon EOS 5D (87mm, f/8, 1/1000 sec, ISO100)

足あと

先ほどから玄関のドアをたたく音がしています。

枕元の目覚まし時計に目をやるとまだ夜明け前でした。

「こんな早い時間に来る人間なんかいないよ」

私は心の中でつぶやきながら寝返りをしました。

「……?」
横に妻の気配がないことに気づきました。

夜中に一度目覚めたときには私の背中に顔を埋めるようにしながら、かるく寝息をたてていたのを覚えています。

トイレにでも立ったのかしらとおもいながら、しばらくは部屋の気配に耳をすませておりました。

しかし、それをうかがわせるような物音はありません。

また、ドアがとんとんと鳴りました。私は寝間着の上に壁に掛けてあったオーバーを着て原研のドアを開けました。

ノック

外は夜明けのうっすらとした明るさの中にうす雪がふりはじめていました。

南国の平野に昨日今日と二日つづけて降る雪なんて、十年に一度もないくらいの珍しさです。

私は玄関先に立ったまま先ほどからドアをノックしている人はどこにいるのだろうと目で探しました。

が、それらしい人影は見あたりませんでした。アパートに隣接する駐車場のほうにもいってみましたが、いつもと変わった様子は何も見あたりませんでした。

それよりも私は妻の姿が屋内に見あたらないことの方が気がかりでした。

もしかして彼女は私よりも先に目覚めて窓の外に雪が降っているのを知って、昨日の朝の様に表に出ているのかもしれないと思いました。

玄関ドアをトントンしたのは妻だのか。まだ、少女的な心の残っている女性ですから。

妻よ

雪は昨日よりも一段としんしんと降っています。粉雪は玄関先にも音もなく舞いこんできていました。

どこもかしこもが銀世界に変わっています。

田圃やこんもりとした丘や杉木立もみんな雪国の世界です。

私は寒さにふるえながら家のまわりを見てまわりました。

昨日の朝妻は庭のはしの小さな菜園の前に立って雪景色をよろこんでいました。しかし、そこにも妻の姿はありません。

私は少し不安を覚えながら玄関先に戻ってきました。

その時です。遠くに鶴の鳴き声が聞こえました。目をあげると田圃のはしの杉木立に二羽の鶴の姿がありました。

あしあと

いままではまったく気づかなかったのですが、よく見ると人の足あとが玄関先からまっすぐに田圃のほうにのびています。

先のほうは雪に隠されていますが、その延長線上には杉木立がありました。

玄関前から田園の中程までつづいている足あとは小さなものでした。

小柄な妻のものに間違いありません。

私は急いで足あとを追いました。家を出、道路を横切り、田圃の中にはいっていきました。

雪は場所によっては、履いているスニーカーが隠れるぐらい降りつもっていました。

登美子

田圃の中をすすむにつれて妻の足あとはだんだんに薄くなり、それにとって変わるように、鶴の足跡が杉木立に向かっていました。

「登美子」

私は妻の名を呼びました。

するとそれに呼応するかのようにして杉木立のほうから鶴の鳴き声がしてきました。

くぉおー、くぉうー

「登美子」

親子鶴

一瞬、杉木立に雪煙りがたちました。驚きながらながめると雪煙りの中から二羽の鶴が姿をあらわしました。

どうやら親子鶴のようです。

真っ白な大きな羽をゆったりと羽ばたかせながら私が立っているほうに飛んできます。

くぉうー

親子鶴は私のいる田圃の上空をゆっくりと一回りすると、やがて降りつづく雪の中に見えなくなりました。

小さなデジタル遺産として残しておきたい老人の青春時代

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